手書き文化を考える
(2015年2月)
小学校、中学校の学校現場に電子黒板が普及し始めている。倉敷では、全学級に整備されたという。電子黒板に先
行する形でプロジェクターはより多くの学校に設置されている。教育現場に最新の表示装置が導入されることは基本
的に望ましいことである。
先日書道の教員と話をしている中で改めて考えさせられることがあった。文字を手書きしている様子を、子どもが
目にする機会が激減しているというのである。言われてみればその通り、子どもを取り巻く環境の中で、大人が手書
きで文字を書いている様子を目にする機会がなくなりかけている。
ある小学校の先生が、夏休みの課題に往復はがきを用いて近況報告を出すという課題を出した。すると、複数の保
護者から、往復はがきはどのように書くのですかという質問が寄せられたというのだ。さすがに通常のはがきはどう
書くのですかという質問でなかったことに救いはあるが、メールをはじめとする通信手段の急速な進化のために、手
紙やはがきを使用することがなくなってきているのだ。通信だけでなく、メモや記録にも便利な入力機器が用いられ
ている。手帳でさえ、手書きすることがなくなってきている。現在の大人は、まだ子どもの頃に手書き文化が主流で
あったが、現在の子どもたちは、文字を習得するはじめから、手書きに触れる機会が激減しているのである。
電子機器を使った入力と手書きの最も大きな違いは、文字ができあがっていく過程が見えないことである。キーボ
ード等の入力機器を用いて「打つ」と、候補としてできあがった文字が現れ、それを選択することで文章ができていく。
書き順はもとよりできあがる過程が全く見えない。このような状況はますます深刻化すると予想される。
習字塾にでも通わない限り、学校現場でかろうじて手書きの過程を見る機会が残されるということになってきつつ
ある。残された貴重な機会の一つが板書である。学習場面で黒板に教師が文字を書いていく過程を学習者は注視する。
過程まで含む手書き文字のモデルはそこにしかなくなってきている。文字の字形のモデルは、教科書等に見ることが
できるが、それとて印刷されたときの見栄えの良さに配慮しデザイン化された「教科書体」というフォントである。
まして一般の印刷物は、明朝体やゴシック体をはじめとして、手書きの文字とは、字形はもとより、画数まで異なる
ものが使われている。
様々なことが、時代の流れの中で変化していくことはやむを得ないことかもしれないが、わずか20年くらいの間
に、日本語の文字の形が手書きを中心にしたものからデザイン化されたフォントをベースにしたものに移行してしま
うのを容認していくしかないのだろうか。手書きで文字を書くという行為は、繊細な運動能力のコントロールを必要
とする。そのことによる脳への刺激は脳の発達にとって重要な役割を果たしていたのではないだろうか。
かつて、横書きの文書が主流になり始めた頃、「まる文字」とか「変体少女文字」とかいう名称で、字体が変わってい
こうとすることに多くの国民が危機感を持ったことがある。そのときに比べ、さらに深刻な変化であるにもかかわら
ず、国民の危機意識は共有されていない。電子黒板の普及は教師の手書きの板書を減少させ、手書き文化を体験する
貴重な機会が失われていくことにどう抵抗すればいいのだろうか。