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「手書き」に関するHPです。研究から随想、エピソードまで…。

手書き こぼれ話

「自分の中で生きて残るように覚え込む」をするしかないなと思って、

                              橋本 治[作家]

2016年5月14日・土曜日

 うっかり関心を持ったって、どうにもならない。「人間の脳が稼働して対処出来ることには限界があるな」ということを実感してしまったので、知らないことは知らない。世の中にはいろんな人がいるんだから、自分がそんなにもいろんなことに手を出す必要はないと思って、現在に至る――そういう私が「いろんなこと」をやっているように見えるなら、「終わったことは忘れて、稼働可能な脳の容量を確保する」ということをこまめにやっているからだろう。
 「忘れても覚えている」というのは人間の特質で、これを利用しない手はない。私に言わせれば、一度忘れられたことは、思い出される時には成熟だか発酵だかして、深化した形で現れる。だから、忘れることに不安はない。それを可能にするためには、「自分の中で生きて残るように覚え込む」をするしかないなと思って、私は「自分の手で書き記す」という手段を用いている。
 私のフロッピーディスクに入っているものは、「私はこのように理解しました。このように理解するしかありませんでした」という、一度経験値に変換されたデータの集積で、私はそのような形でしか物事を消化出来ない。「消化されないと理解されない――しかもそれにはそれなりの時間がかかる」というのが私の因果な体質で、それからすると、ウェブも活字も違わない。

         橋本治著「そもそもパソコンを持ってないし――」(原文は、縦組。)から抜粋
                             『考える人』No.30(新潮社) p63 2009年

         


1枚について 少なくとも 4・5枚は無駄をする。    谷崎 潤一郎[作家]

2016年5月7日・土曜日

 毛筆を使ふ場合には、原稿用紙も日本紙の方が便利であることは云ふ迄もないが、日本紙はそれ以外にもいろいろ都合のいいことがある。第一、私は関西の郊外に住んでゐるので、原稿を記者に手渡しすることは殆どない。いつも郵便で送り届けるのであるが、そのためには、目方のかゝらない、嵩張らない紙質で、強靱なものゝ方がよいのである。それに私は、非常に書き潰しをする方で、統計を取った訳ではないからハツキリしたことは云へないが、一枚について少くも四五枚は無駄をする。だから百枚の物を書くには、四五百枚以上の紙を用意してかゝる。それでも筆が思ふやうに運ばない時は、仕事が捗らないのに反比例して、用意した紙は見る見る減つて行き、紙屑籠が直きに氾濫するのであるが、執筆中は女中を呼んで籠をあけさせるのさへ億劫なものであるから、机の周りが散らかつて仕方がない。そんな場合に、日本紙の紙屑は嵩張らないだけに氾濫する度数も少く、籠をあけに行く手数が大分省ける。又旅先へ仕事を持つて行く時など、五百枚千枚といふ西洋紙を持ち運ぶのは厄介だけれども、日本紙だと手軽に運搬出来るのである。

          谷崎潤一郎著「文房具漫談」(原文は、縦組。)から抜粋
                     『谷崎潤一郎全集』第22巻(中央公論社) p465〜466 1959年

         


生まれつきぶきっちょの私は字を書くのが苦手だ      谷川 俊太郎[詩人]

2016年4月30日・土曜日

 読み書きができるということが、日本ではあたり前になっているが、地球上には今でも無文字言語社会が数多くあり、それらをたとえばアルファベットや表音記号で表記しているのを見ると、昆虫標本でも見ているような、どこかさむざむしい気分になるのは何故だろうか。肉声は人間のからだの闇の中から発せられるが、文字はどうだろう。日本や中国のすぐれた書を見れば、文字もからだはおろか書く人の全人格を負っていることが分かるが、それでも声にくらべれば文字ははるかに明晰だろう。指先にからみつくような草書すら、視覚化されていることで、ある明るさのうちにある。  
                                                                 ママ
 意味は文字化できても、さらに多義的な声が決して文字化できないのは、たとえば、単純な感歎詞<ああ>の表記ひとつとってもあきらかだが、その<ああ>という表現が逆に読む者の内部に無限の多義性を喚起することを忘れてはならない。詩が朗読され、声となることでかえって解釈をせまく限定してしまうことがあるのは、黙読という比較的近年の習慣が、特に音声による伝達よりもいききしている場合もあるという事実を思い出させてくれる。カタカナ、ひらがな、漢字の三種類の文字をもつわれわれの言語の場合、文字の綾なす表情は特に豊かで魅惑に満ち、ローマ字論者の機能主義を打ち負かして余りある。  
 とは言うものの、生まれつきぶきっちょの私は字を書くのが苦手だ。プールサイドに寝そべってタイプライターを打つ海のむこうの作家たちを何度うらやんだことか。だがピアノを弾くように文字を書けたら、失った歌もかえってくるかもしれない――というのは感傷にすぎず、光の点の集積でディスプレイされるコンピュータ文字は、手書き文字の線の呼吸も勢いも喪失していて、今のところワープロを用いる気になれないのは、価格のせいばかりではない。

          谷川俊太郎著「文字する」(原文は、縦組。)から抜粋
                      日本の名随筆別巻88『文字』(作品社) p31〜32 1998年6月

                 


その人の原稿や断簡零墨を見たいと願っても、罰はあたるまい。

                    宮下 志朗[フランス文学・書物史]

2016年4月23日・土曜日

 一六世紀のフランス文学をやっていると、寂しさを感じることがある。「原稿」とか「草稿」といった、手書きのテクストの不在だ。たとえば、わたしが翻訳したラブレー《ガルガンチュアとパンタグリュエル》も、原稿は残されていない。一六世紀は活字本の時代だ。活字を拾い、組版をし、印刷をしてしまうと、原稿はお役御免、はいさらば、とばかりに廃棄されてしまう。あっけないものだ。作者の肉筆とは親交を深めようないのである。手稿だろうと、活字だろうと、電子テクストだろうと、変わりはないのかもしれないが、一抹の寂しさを覚えるのもまた人情であろう。ある人物が書いた文章を何十年も読み続けていれば、その人が生まれ育った場所を訪れたい、はたまた、その人の原稿や断簡零墨を見たいと願っても、罰はあたるまい。
 ところが、一六世紀だとなかなかそれがむずかしくて、モンテーニュについても、裁判官としての判決文、書簡、蔵書への署名や注記、献辞、暦への書き込みなどは存在するが、原稿・草稿のたぐいは残っていない。[中略]
 一六世紀における原稿の不在。ひょっとすると、一五世紀半ばに出現した活字本のアウラが強烈で、手書き原稿などかすんでしまったのだろうか?わがモンテーニュが、「われわれのばかばかしい言葉だって、印刷すれば箔がつく」と喝破していたことを思い出す(『エセー』三・一三)。やはり、「肉筆よりも印刷文字を神格化する」思考(石川九揚『「書く」ということ』文春新書)が行きすぎたのかもしれない。
 では、現代、つまり電脳の二一世紀はどうだろう。手書き原稿のスタイルを墨守する作家は、絶滅危惧種に近い。後世の村上春樹研究者は、万年筆による手書き原稿にこだわるならば、初期作品を対象にするしかない。もっとも、そうした生原稿も、古書市場に流出したともいうから、どこかに秘蔵されて、これまた門外不出となっているかもしれない。

          宮下志朗著「原稿へのあこがれを写本で癒やす」(原文は、縦組。)から抜粋
                            『図書』(岩波出版)Vol.804 p6〜7 2016年2月

       


人間と人間の関係、そして会話を書くのに向くのが原稿用紙とペンなのだ

                岩本 了[劇作家・演出家・俳優・映画監督]

2016年4月16日・土曜日

 「一行一行に神経を注いで書く」という戯曲の原稿は、まさに岩松さんがノートで培ったアイデアの集大成だ。入念に準備をし、さらに書きながら考えるというスタイルに、原稿用紙とペンがぴったりと合うのだろう。  
 しかし手書きだけでなく、前述のタブレットもエッセイなど「短い原稿」の書きものに使う。その時に思い浮かべながら書くものにはキー入力を、気持ちを入れて書くものには手書きをと使う分けているのだそうだ。  
 「人間と人間の関係、そして、会話を書くのに向くのが原稿用紙とペンなのだな、と思います」。

               「手書き人」(文/小日向京。原文は、縦組。)から抜粋
                           『趣味の文房具』(竢o版)Vol.34 p31 2015年7月

             


時間をかけて言葉を脳にしみ込ませていく。         桂 文枝[落語家]

2016年4月9日・土曜日

 そんな文枝さんの人生とも言える創作落語に、とりわけ手書きが欠かせない。日ごろからネタになる言葉をメモに書きとめ、そこから噺へと展開させる経過でメモからクロッキー帳、大学ノートへと紙面を広げてゆく。
 「本当はもっと書いとかんといかんのでしょうけど、頭に文字がついてこなくて」という言葉に、これほど書いていても足りないものかと圧倒させられるが、筆記具と紙が使えない場では、iPhoneのメモに残すことも多いほどなのだという。
 「書いてると覚えるんですよ。むしろアイデアより、”覚えるため”に書いてることのほうが多いです。落語には忘れたらいかんところがあるんで、同じことを何遍も書く。書いてるうちに忘れなくなるんです」。
           [中略]
 「落語にはどこが完成というのがないから、言葉を出したり引いたりしながら模索していく。ノートは開いていっぺんに見られるところが使いやすいね」。
  いったいこれほどの洪水のような言葉の波を、落語家はどのようにして諳んじているのだろう。頭で言葉を覚えているのだけでは駄目、と文枝さんは言う。
 「話す時には、文字が浮かんでいるようではあかんのです。試験のようにはいきませんから。時間をかけて言葉を脳にしみ込ませていく。そのために、書くことで文字を身体のなかになじませていくんです」。

               「手書き人」(文/小日向京。原文は、縦組。)から抜粋
                         『趣味の文房具』(竢o版)Vol.34 p24〜26 2015年7月

             


仕事関係はデジタル、メモや私信は手書き     山田 五郎[編集者・評論家]

2016年4月2日・土曜日

 昔は原稿用紙に万年筆で原稿を書いていた。「今でも手書きの方が早いし楽ですが、それだと編集者に入力させることになるので気が引けて、メールでデータ入稿しています。仕事関係はデジタル、メモや私信は手書きというのが原状です」。
 手書きがいちばんしっくりくると感じながらも、人と関わる仕事にはそのなかの最良の方法を取り、自分のなかでの書きものには選択肢を状況に応じて使い分ける姿が清々しい。

               「手書き人」(文/小日向京。原文は、縦組。)から抜粋
                            『趣味の文房具』(竢o版)Vol.33 p15 2015年3月

          


書かれたものは、刻まれるのだ。          ル・コルビュジェ[建築家]

2016年3月19日・土曜日

 文字を手で書くということが、はたしてどういうことなのか。それはなかなか言い表し難いが、ここに次の一文を示しておきたい。

  デッサンをするのは、見たものを内側に、自分自身の歴史のなかに導くためだ。
  ひとたび鉛筆による作品となったものは、人生になかに入る。書かれたものは、
  刻まれるのだ。

 二十四歳のシャルル=エドゥアール・ジャンヌレは一九一一年、地中海沿岸から東方諸国を半年間かけて旅行した。彼は十×十七センチのクロッキー帳におびただしいスケッチとメモを書き留めたが、それは『東方への旅』としてその死の翌年一九六六年に出版された。彼のまたの名はル・コルビュジエ。二十世紀を代表する建築家であり、その名は日本でもよく知られている。ル・コルビュジエにとって東方への旅は、いまも世界中から羨望されるその建築の原体験といわれている。デッサンをする。メモを書き留める。「書かれたものは、刻まれるのだ。」それは単に記
                             ママ
録のためではなく、「自分自身の歴史のなか導く」ことなのである。
 「触れる」だけで導き出される文字や語彙に、はたしてどれだけの生命力が宿るのやら。

               「書く――もう一つの意味」[原文は、縦組。]から抜粋
                      財前謙著『日本の金石文』(芸術新聞社) p218〜219 2015年3月

          


手で書くと 考えるようになる           藤原正彦[数学者・作家]

2016年3月19日・土曜日

 「パソコンを使うと、文章が違っちゃうのが怖いんです。どんどん文字が進むように見えますが、手書きとは心構えがまるで変わります。ものの哀れや人情の機微を表現するのに、キーを叩くというのは違うかなと」。
  また、手で書くと、よく考えるようになると藤原さんは言う。藤原さんにとってもうひとつの大切な「よく考える」こと――数式も手書きに徹しているという。 [後略]

               「手書き人」(文/小日向京、原文は、縦組。)から抜粋
                         『趣味の文房具』(竢o版社)Vol.37 p90〜91 2016年3月 

              


数字と手書き

2015年5月27日・水曜日


 最近、購読し始めた雑誌に、『考える人』(新潮社)があります。
 その2015年春号「特集 数学の言葉」の編集後記は、「黒板と数学」です。その中に、次のようにありました。
           ○○○○○○○○イメージ
 そう言えば、私の知り合いの数学者(日本人)の部屋にも、黒板があります。
 また、彼は、授業で教室前方の黒板にも教室後方の黒板にも、グリグリと計算過程を書きまくります。PCスライド全盛の時代にあって、手書きなしでは成立しない授業です。
 つまり、PCで計算を行うのではなく、手で書きながら計算をしていくのです。頭の中の回転音が、聞こえてきそうな板書です。
 彼の授業を受けている学生は、彼の計算過程を眺めていたり転写したりするのではなく、ノートに手書きで、自分のスピードで計算過程を書き進めます。進めなくなったら、顔を上げて、板書を見ます。板書で、見失った「道」を発見したら、また、手書きで計算を進めて行きます。
 その教室には、チョークで黒板に書く音とノートに手書きする音のみがあります。
 数学は「究極の人工言語」だと編集後記にはありましたが、数学は抽象的思考のための言語であるともいえます。
 抽象的思考を、手書きで進めるというところに、何ともいえない安堵感を覚えました。 (菖)

○○○○○○○○イメージ








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