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書室は、「手書き」に関するホームページ。研究から随想、寄稿まで…

訪問リポート

今後の予定

 

   未定


石盤、石筆が語る明治の学習                   [国内⑦]

2016年4月16日・金曜日

 旧開智学校、松本市立図書館資料室 
   https://www.city.matsumoto.nagano.jp/sisetu/marugotohaku/gakko/jousetsu_tenji.html

 今年の春休みの最後は、松本で過ごしました。  
 あずさに乗って、大月や甲府までは行ったことは何度もありますが、松本は初めてです。  
 松本には海がなく、周囲を飛騨山脈と筑摩山脈が取り囲んでいます。その山脈が切り取った紺碧の空。松本で育ったら、山よりも空が近いと思うかもしれないと、感じました。  

 松本城近くにある旧開智学校は、明治6(1873)年に開校し、現在は教育博物館となっています。初めての松本訪問は、旧開智学校が収蔵する膨大な資料が目的でした。学芸員によると、整理が追いつかないとか。それでも、次々と資料を提示してくれることに、驚きと共にうれしさが溢れてきました。が、一方で、「ものが語る歴史」を目の当たりにして、気が遠くなりました。  
 ここでは、ほんの一しずくを紹介します。  

       

 明治末年(1912)生まれの祖母の話にも登場してきた「石盤」と「石筆」がこれです。(「石盤拭い」は、明治のものではありません。)主に、低学年児童の学習用具となったようです。  
 「石盤」は、B5判~A4判大で、机の面積のおよそ9分の1を占めます。「石筆」は、ちょど、電子ゲームの操作に使うステックのような形態です。これは、現在のチョークのように軟らかくはなく、使えば、カリカリと音がしそうな硬さです。  
 両者が低学年児童限定の学習用具であった理由は、以下のとおりです(佐藤秀夫著『ノートや鉛筆が学校を変えた』を参照した)。   
  ① 児童用のノートと鉛筆が普及していなかった。   
  ② 低学年児童には毛筆の扱いが難しく、授業中に書き付けることができなかった。   
  ③ 石盤の性質が、簡単な構造からなる反復修得をするような学習に有用だった。    
  (石盤には、1回にごく限られた分量を書きつけることしかできなかった。かつ、記 録性がなかった。)  
 大正期には、鉛筆と児童用ノートが普及し、子どもの学習が大きく変貌していきます。つまり、ノートが試行錯誤性と記録性とを併せ持っていたからです。  
 ここに、用具と学習とが相互に規定し合う関係をつぶさに観察することができます。    

 用具と学習とが相互に規定し合う関係であるということを前提にして教育を展望するとすれば、手書きから非手書き(キーボード、タッチパネル)への移行は何をもたらし、何を失うのでしょうか。そのことが、平成に生きる私たちに提示された問いなのです。(鈴木)

    

俳句王国                             [国内⑥]

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2016年3月11日・金曜日

 1月末に、愛媛大学の文京キャンパスを訪問しました。文京キャンパスのある松山市は、文学的な素養に溢れた街です。さすが、漱石が赴任しただけのことはあります。

 愛媛大学は地元密着型のミュージアムを持っていて、訪問した時には、「愛媛の俳人展」が開催されていました。
 正岡子規や河東碧梧桐など、愛媛出身の俳人が、自分の俳句を、自分の手によって揮毫したもの(扇面、色紙、短冊など)が展示されています。句会の席で揮毫されたものもあります。
 プロデュースされた教授の持ち物がほとんどだそうですが、「愛媛は、こういうものがゴロゴロしているよ。文学系の本よりは高いけどね。」とか。俳句王国の源泉は、こういうところにあるように感じました。
 残念ながら、ミュージアムの展示物は、撮影禁止でした。

 暮れに、東京・根岸の笹乃雪で、湯豆腐をいただきました。
 根岸は、正岡子規が執筆活動の拠点にした土地。笹乃雪から徒歩2分のところには、子規庵があります。正岡子規も、笹乃雪で、豆腐料理を食したそうです。
 店の前には、子規直筆の句碑があり、二つの句が刻されています。
 この句は、明治30年頃に詠んだと言われています。
 朝顔市が立つ季節です。子規は、腰の持病を抱えていましたが、この句を詠んだ頃は、まだ外出ができて、朝顔市に行ったり、笹乃雪に立ち寄ったりしていたのでしょう。
 故郷松山から母と妹を呼び寄せ、明治35年35歳で亡くなるまで、根岸で暮らしたそうです。(鈴木)

             

藤樹の道 良知に到る                       [国内⑤]

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2015年4月2日・木曜日

 攀桂堂さんとの約束の時間まで2時間以上ありましたので、道の駅をのぞいたり、散策をしたりしました。 
 その寄り道が、予想外に収穫が大きかったので、改めて、訪問しようと思っているくらいです。
 というのは、最寄りの駅から攀桂堂さんまでの道のりは、近江聖人中江藤樹をたどることそのものなのです。もっと下調べしてくるのだったと、後悔しきりでした。

 まず、心に刺さったのは、下記の「藤樹先生のことば(2)」です。道ばたには、数々の徳行で知られた藤樹先生の言葉が掲げられていますので、それに目をやりながら散策しました。

 「それ学問は心のけがれを清め、身のおこないをよくする本実とす。」

  これは、たくさんの高度な知識を獲得することによって、かえって他人をあなどったり、見下してしまったりする心を戒めた言葉なのでしょう。
 一突きされた胸を押さえながら歩みを進めました。そして、藤樹神社の横にある記念館に引き込まれるようにして入りました。
 そこで、私を出迎えたのは、「到良知」の拓本でした。正確には、藤樹先生の真跡「到良知」を拓本にしたものです。
 儒学者藤樹の学問は、「良知心学」とも呼ばれています。


 マニュアルによる研究者倫理のFD(ファカルティ・デベロップメント)を受講するより、得たものが多い気がします。
                                                  (鈴木)

安曇川の巻筆製作/創業400年・攀桂堂               [国内④]

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2015年4月2日・木曜日

 滋賀県安曇川の攀桂堂(はんけいどう)で、巻筆の製作過程を見学させていただきました。
〔攀桂堂HP http://umpei-fude.jp/about-us.php〕

 先月、熊野で水筆の製作過程(「訪問リポート」3月4日の記事参照)を見せていただいていますので、16代目の純一氏に、水筆とは最も異なる部分を集中的に説明していただきたいとお願いしました。なお、純一氏は、3年間ほど、熊野で水筆製作の勉強をされていたそうです。ですから、私のわがままな注文に的確に応えてくださいました。

 現在の日本で巻筆を製作できるのは、攀桂堂さんだけです。昭和末に、宮内庁の依頼で、奈良時代の大仏開眼に用いた筆の複製を成し遂げたのは、純一氏のお父さんである現当主(15代目)です。
 写真のように、a穂を作る、b筆管を作る、c穂と筆管をつぐ、dつなぎ目に毛をかぶせる、eつなぎ目の根元を糸で縛り付ける、fつなぎ目に紙を巻く、(d~fの繰り返し)‥‥。これを乾かしなが ら行うので、1日に1本も作れません。

 攀桂堂さんの仕事は、1本の筆を最初から最後まで、一人で行います。江戸時代までは、この方法で作った筆しかありませんでした。
 一方、熊野の水筆産業は、それぞれの段階を担当するセクションがあって、その分業協働体制が敷かれています。江戸時代末からは、この製法が主流となります。
 どちらも、時代が要請する仕事を見つめ抜いた結果でしょう。

 各時代の生活に密着している筆記具。だから、筆記具のエピソードをつないでいくと、その時代の思いがけない面を切り抜くことができるのではないでしょうか。
 熊野と安曇川の取材を終えて、たとえば『日本筆記具史料』なるものを残していかなければならないと思った次第です。 (鈴木)






永井隆博士『乙女峠』直筆原稿とアンジェラスの鐘           [国内③]

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2015年3月15日・日曜日

 今日は、休日ですが、昼からの研究室に出てきました。通勤途中にある浦上キリシタン資料館で、ゆっくりしようと思ったからです。
 現在、浦上キリシタン資料館には、「信徒発見」150周年記念行事の一環で、永井隆博士の『乙女峠』の直筆原稿が展示されています。
 カトリック信者でもある永井隆博士(長崎医科大学教授)の『乙女峠』には、浦上キリシタンの弾圧のことが書かれているからです。

 『乙女峠』は永井博士の絶筆です。原爆による白血病の症状が危険な状態となった時点から20日あまりで脱稿したと言われています。博士は、脱稿してから3日後には執筆不能となり、9日後には不帰の人となったそうです。
 ですから、一種の先入観を持っていましたが、拍子抜けしました。筆跡は、柔らかく優しい面貌をしています。字形の乱れもありません。

 なぜ、このように穏やかさを湛えているのでしょうか。
 書くことは、人を穏やかにするのかもしれません。

○○○○○○○○イメージ  私が自宅で過ごしていると、浦上天主堂の鐘の音が聞こえます。
 この鐘は、「アンジェラスの鐘」と呼ばれています。永井博士が執筆し映画化もされた『長崎の鐘』とは、この鐘を指します。
 鐘の音は、5時半、6時、正午、18時に聞こえます(昨年までは)。6時の鐘の音は、ミサの開始を告げるのだとか。
 しかし、最近は、朝の鐘の音が聞こえません。朝寝坊のせいかと思っていましたが、そうではないそうです。シスターによると、近所からの苦情で、朝の鐘を中止したのだそうです。
 博士の自宅(如己堂)は、浦上天主堂の近くです。博士は、この音を聞きながら、原爆病と闘い、執筆活動を行ったのです。(鈴木)


熊野の水筆製作/創業135年・広島筆産業株式会社            [国内②]

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2015年3月4日・水曜日

 広島県熊野町の広島筆産業株式会社(代表取締役社長:城本健司氏)で、水筆の製作過程を見学させていただきました。
(広島筆産業株式会社HPは、 http://www.artbrush-hiroshima.com/news/list.php)

 現在通常に使用されている水筆が製作されるようになったのは、ここ150年ほどだそうです。それまでは、日本人は、筆の先だけを使う巻筆を使っていたそうです。
 熊野では、水筆を発案することによって、筆を大量生産することができるようにしたのだとか。

 水筆の製作過程を、ごくごく簡単に言うと、次のようになります。
(詳しくは、「筆の里工房」HPで、http://fude.or.jp/jp/kumanofude/flow/)
 穂の部分は、数種類の毛を「練り混ぜ」して、「芯」を作ります。それに、衣毛を、海苔巻きのようにして着けます。穂を筆管に収めてから、穂に含まれている余分なふ糊を、糸で絞り取ります。

 職人さんの勘と技とで、非常に手際よく進められています。伝統工芸としての誇りが、職人さんの勘と技とを支えているのだと感じました。 物作りの現場は、つい忘れている人間への尊敬を覚醒させてくれます。 (鈴木)




レオナルド・ダ・ヴィンチの解剖手稿(復刻)             [国内①]

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2015年1月26日・月曜日

 松戸市の聖徳大学に小野瀬先生をお訪ねしました。
 その時、開催されていた特別展覧会に立ち寄りました。

 解剖図も文字(すべて鏡文字、おそらく鉛筆のようなもので書いているとか)も、すべて、もちろん手書きで、まったく緩みを感じません。これを「緻密」というのです。
 こういう「手稿」を書く人間の知力は、気が遠くなるくらい凄まじいのでしょう。
 「天才」以外に、この人間を形容する言葉が見つかりません。

 聖徳太子の書いた「法華義疏」を見たときにも、知力のすばらしさを感じましたが、今振り返ると、「法華義疏」のほうには、まだ「迷い」のような揺れがありました。

 ダ・ヴィンチの「解剖手稿」には、それが全くありません。(鈴木)







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