はじめに
実社会におけるDX(Digital transformation)の流れが加速化している。産業界にとってIT技術の進化に伴う恩恵をいち早く取り入れて業務の効率化や生産性の向上を実現し新たなビジネスチャンス・ビジネスモデルを創出していくことは、企業の存続・発展や社員の働き方改革を実現するためには不可避の戦略である。政府も、経済産業省を中心に、これらの動きを後押しする政策を打ち出している。「AI戦略2019」などは、その一つである。
一方で、これからのデジタル社会を担う人材の教育にも、ICT機器の活用が積極的に進められている。文部科学省も、「学習指導要領」において、小学校からプログラミングに関する指導内容を取り入れたことや高等学校において各学科に共通する必履修科目として「情報Ⅰ」を設置したこと、小中高等学校において「情報の取り扱い方に関する事項」を指導内容として取り入れたことなど、デジタル社会を生きるために必要な資質・能力の育成に力を注いでいる。さらには、これらの改革内容を実現するための基盤整備としての「GIGAスクール構想」に基づく、デジタル環境の整備にも注力している。
このような教育界におけるデジタル化の動きは世界中の国々で模索され始めている。例えば、北欧のスウェーデンやノルウェーでは、母語教育の初期の段階からデジタル機器を活用した教育が展開されている。OECDが実施するPISA調査においても、デジタル機器による解答が求められるようにもなっている。日本を含めこれからの世界では、デジタル機器を活用して教育を展開することが一般的になってくることは間違いない。
教育界におけるデジタル化の加速化は、教師の教材研究や授業方法の転換を求めてくる。これは、子供たちの学び方を変えることにつながる。学習内容だけでなく学習方法の転換として、かつてのノート・ワークシートに手書きする活動がデジタルツールによって記録される活動へと変わっていく。この流れは、止めようがない。デジタルツールの活用を推進する立場の人々からは、学びの効率性や多様性が保障されることが喧伝され、創造性の高まりまで強調され始めている。
しかし、一方で、脳科学の研究者からは、デジタルツールの過剰な使用が脳の活動に悪影響を及ぼしているという報告もなされている。<注1>また、アメリカの研究者からは、「ノートPC
で講義ノートを取った学生よりも、手書きでノートを取った学生の方が、講義中に説明があった内容の記憶が良く、概念の理解も良かった。」という調査研究の結果も報告されている。<注2>さらに、ノルウェーのスタヴァンゲル大学のAnne
Mangen氏のホームペー ジには、「手作業で書くことは、学習過程を強化する。キーボードで入力すると、このプロセスが損なわれることがある。本からPC画面に、
そしてペンからキーボードに切り替える際に何かが失われている。読み書きのプロセスには 数多くの感覚が含まれている。手書きで書くと、私たちの脳は、鉛筆と紙に触れる感覚と共に自分自身の運動からのフィードバックを受け取る。このフィードバックが、キーボード入力とは大きく異なる。」と記されている。
これらのデジタルツールの過剰な使用が生み出すマイナスの要素に関する指摘は、私たちが日常的に実感している大学生たちの姿に重なる点が多い。スマホの使用が本人の一部となっているような大学生たちの講義を受けている様子にも変化が出てきている。彼らの中には、座学的な授業にもアクティブ・ラーニング的な授業にもまじめに参加するが、その内容について行けず見ているだけであったり、レポート課題では点数が取れていなかったりする。そういう学生は、アイデアを出したり、他人の意見を理解して、そこから新しい考えを生み出したりする問題解決型の学習に不可欠な基礎的な能力が十分に身に付いていないのである。その原因の一つが、コピー&ペーストに頼りがちなPCによる文章作成にあり、スマートホンによる板書の撮影・記録の多用にあり、SNSでのコミュニケーションが一般的となっていることにあるように思われる。
実社会をはじめ、学校教育でも、デジタルを活用することは必然の流れにある。しかし、先に記した脳科学者や諸外国の研究者の指摘を踏まえたとき、さらに大学生の実態に接したとき、デジタル活用の大きな流れに無自覚に巻き込まれるのではなく、少なくとも学齢期の子供の学びの過程に必要な学習体験が何であるのかを見極める必要を痛感する。特に、考えたり、類推したり、想像したり、表現したり、何かを創造したりする人間の精神活動に直結する言語の習得に関する体験(Literacy)については、早急にエビデンスのある見解を示す必要を感じるのである。
以上のような認識に立ったとき、「世界標準のLiteracy育成プログラム開発のための基礎研究―時間・身体・過程-」という研究テーマのもと、以下に示すような「研究の目的」・「研究体制」・「研究計画」に基づいて、共同研究を実施した。
実施することができた研究そのものは、課題意識に応えるための緒に就いたものではあるが、この分野の研究の基礎に位置づくものと考えている。そこで、以下に、今回の共同研究に関する報告を記すことにする。[文責:千々岩]
注1:『スマホが学力を破壊する』川島隆太、2018年3月16日、集英社新書
注2:Pam A. Mueller ,Daniel M.Oppenheimer,
Psychological Science Vol. 25, No.6, pp. 1159-1168 June 1, 2014
1 研究の目的
本研究は、当初、世界標準のLiteracy育成プログラムの開発に向けては、必要な基礎的な能力を見極める必要があると考え、日本語の読み書きの力の育成においてキーボード入力やフリック入力とは異なる「手書き」の役割を、時間・身体・学習過程の視点に立って明らかにすることを目的としていた。
しかしながら、研究を展開する中で、以下のような目的に焦点化することとした。
(1)文字や記号などの再生・再認というレベルよりも高次な認知活動(推論、アイディア産出、文章産出等)に
関して、writing modality(手書き、キーボード入力、フリック入力)の性質を明らかにする。
(2)(1)を踏まえて、学習者の発達過程における手書きの最適化問題に提言を行う。
2 研究体制
3 科研費研究推進の経緯
【2018(平成30)年度】
(1)研究の目的・方法・研究体制の確認
(2)第1次調査の実施(2018年12月)
〇大学生を被験者としたwriting modality(手書き、キーボード入力、フリック入力)と産出された文章の質の
相関性に関する調査を実施した。
〇文章の質の評価には、ルーブリック評価(パターン2種)及び主観評価 (パターン2種)を用い、それぞれの
評価指標ごとに本調査に全く関係のない複数人(現職の中学校国語科教師、退職した中学校国語科教師、現役
小学校教師、中高国語科免許取得の大学院生)に評価してもらった。結論としては、どのパターンの分析を
行っても、writing modality の違いによって、文章の成績には、有意な差はほとんど見られなかった。
〇この背景には、文章の質的分析に関する安定した評価指標が未だ確定してない現状があり、このことが
writing modalityと文章産出の質との関係に、簡明直截にアプローチすることを困難にしていると考えられる。
【2019(平成31・令和元)年度】
(1)ノルウェーのAnne Mangen(Stavanger大学教授)の訪問と意見交換の実施
〇2019 年 8 月、Stavanger 大学を訪問し、本研究の手法などについてMangen 氏と協議した。彼女は私たち
の研究に関して、次のような助言をくれた。
①1人の被験者が、3種の writing modality で、文章を記述する実験をデザインすること。
②被験者の writing modality の習慣をもっと細かく調査すること。
③ ①を実施するにあたっては、まずは、産出する文章のテーマが複数(たとえば A、B、C の3種)必要となり、
それらの難易度を均質にする必要があること。
〇Mangen 氏との意見交換を踏まえつつ、研究体制の実情に鑑みて第2次調査の在り方を検討した。
(2)第2次調査の実施(2019 年 12 月)
〇writing modality と産出した文章の質との関係を追跡することを休止することにした。それに代わって、
2019 年 12 月、writing modality (手書き、キーボード入力)と連想との関係を、大学生を被験者として調査
することにした。
〇その際の調査目的を、以下のように設定した。
①日常的に手書きを好んだり、多用したりする人ほど、言語処理能力や連想能力が高いか。
②手書きのほうが、キーボード入力よりも、連想が多く生み出せるか。
〇調査方法としては、大学生 36 名(女性 24 名、男性 12 名;18-20 歳)を対象に、以下のような方法をとった。
①連想産出課題においては、参加者を手書き群とキーボード入力群に、半数ずつランダムに割りあてた。
②調査手順は、以下のとおりである。
・全体の所要時間は、説明、回収を含めて、約 50 分間。
・writing modality の使用状況に関する質問紙…約 5 分間
・キャッテル知能検査[推理・推論]…約 15 分間
・京大 NX9-15 検査[言語処理]…約 5 分間
・連想課題[創造性]…制限時間 10 分間
〇同時に、writing modality の使用状況に関する質問紙調査も実施した。
①最終的に PC のワープロソフトで作成しなければならないレポートを執筆する過程において、取材・構想・
記述 の各段階で、手書き、PC、スマホをそれぞれどの程度使用するかを、5件法(0「全く行わない」~
4「非常によく 行う」)で回答を求めた。加えて、「取材段階でスマホカメラを使うか」と「推敲はプリント
アウトして手書きで 行うか」も同じく 5 件法で尋ねた。
②執筆手段が自由なとき手書きを好むか PC を好むか 400~800 字程度の文章を作成する時、手書きかPC の
どちらでもよいなら、どちらを好んで使うかを、1~10 の 10 段階スケールの数字に1つだけ〇をつけて回答
してもらった。1 に近いほど手書きを好み,10 に近いほど PC を好むようにスケールを設定した。
【2020(令和2)年度】
新型コロナウィルスの感染拡大を受け、リモートによる調整を行いつつ、調査結果の総括と今後の研究のあり方に
ついて意見交換した。調査研究の成果を、以下のような学会で発表した。
(1)第35回全国大学書写書道学会発表(2020年9月:紙面発表)
(2)第139回全国大学国語教育学会発表(2020年10月31日から11月7日紙面発表)
4 研究経過の発表実績
(1)「Writing Modalityと成果との関係に関する調査研究」
(2)「Writing Modalityと成果との関係に関する調査研究(2)」
研究発表〔手書き関連〕へリンク
5 調査報告
(1)ノルウェー・スタヴァンゲル大学マンゲル教授らとの意見交換の概要
(2)ノルウェーでの最新研究 ー 今後の手がかりとして
調査報告の内容はこちらを参照
おわりに - 研究の成果と今後の課題―
(1)研究の成果
本共同研究では、新型コロナウィルス感染症の影響もあり、一部において当初の研究計画を実現することは
できなかったが、大学生(長崎大学)を対象としてWriting Modality使用状況と認知[推理・推論、言語処理]との
関係を調査して得た知見は、今後の研究の方向付けになったことは間違いない。今回の研究で明らかになった
ことを記せば、以下のようになる。
①レポート執筆時にスマホをよく使う者ほど、推理・推論能力が低い。
②レポート執筆時 の取材で写メを使う者ほど、PCでの執筆を好む。
③レポート執筆時の推敲を手書きで行う者ほど、手書きでの執筆を好む。
④PCでの執筆を好む者ほど、推理・推論能力が低い。
以上の結果から、日本語において、Writing Modalityは、認知[記憶、推理・推論、言語処理]能力に影響を
与えている可能性があるといえよう。すなわち、日本語ではデジタルツールを使用する場合、多くはローマ字
入力及びローマ字漢字入力を伴うので、欧米語におけるデジタルツールの使用に比して、認知[記憶、推理・推論、
言語処理]能力にかなり大きな影響をもたらすだろうと推測している。
(2)今後の課題
以上のような研究成果を踏まえたとき、「書く活動」とWriting Modalityとの関係性に着眼しながら、以下の
ような点を追究していきたい。
①日本語において、Writing Modalityは、認知[記憶、推理・推論、言語処理]能力に影響を与えている可能性が
あるという点の更なる追究。すなわち、Writing Modalityによる認知[記憶、推理・推論、語処理]能力の差異に
関する精度の高い調査データ(エビデンス)の蓄積。
②Writing Modalityと創造性(アイディア産出)との相関性に関する精度の高い調査データ(エビデンス)の蓄積。
③日本の世論が1人PC1台並びに安定したネット環境(家庭、学校、社会)の実現に向かって急速に傾いていって
いる中で、デジタル先進国での研究を踏まえ、少なくとも小学生、中学生及び大学生におけるデジタルツールを
使用する教育が認知能力に与える影響に関する精度の高い調査データ(エビデンス)の蓄積。
④その上で、Writing Modalityとしてのデジタルツールの使用は、どのような教育(学習)場面で有効性が高く、
どのような教育(学習)場面でどのような課題があるのかを見極めていくこと。
⑤「④」を踏まえ、教育(学習)場面における「手書き」の役割を見極めていくこと。更には、子供の発達過程に
おける「手書き」の役割を追究すること。 [文責:千々岩]
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